住民スキーツアー

貸切バス前面のグループ表示は、スキーばかりが目的ではない、との記載

老若男女住民17名が朝早くから小学校の駐車場に集結しました。目指すは白銀の志賀高原。

着いてみたところ、雪の量は例年の半分以下、融けた雪がふたたび凍った春のザラメ雪と化しています、残念。

ザラメのグリップに力を要し、足腰に疲労が来たため早々にリタイア。こののち宿の温泉でサル団子です。

暖活/ウォーキング11km

O‘ahu島東海岸にキレイなビーチがあるとのこと。今回の渡ハもまた住まうように旅しています。

王朝時代のイオラニ宮殿近くで路線バスを乗り継ぎ、目的地カイルアを目指します。

米国は11/11月曜が復員軍人の日で祝日ということもあって三連休。同じ目的地を目指す旅人たちと共に路線バスを下車。のんびりと歩きはじめると、庭先の芝刈りをしているお宅や、剪定しているお宅もありました。どこの国も週末の過ごし方はよく似ています。

緑の回廊を抜けると、砂が感動的に白い。八重山にも、渡嘉敷にだって負けていないかも知れない。

56歳にして余命一年と言われたのは本年1月のこと。なんだかんだ言って、生きているって素晴らしい。来年はビーチマットとおにぎりを持っていこう。

今日はトータル11km歩きました。異言語空間の中、見知らぬ土地を歩くので、もちろん無駄もありますけど。

暖活/ウォーキング10km

Aloha!

土曜の朝、気温29℃、湿度53%、いい貿易風が吹いています。

ダイヤモンドヘッドを時計回りに一周しました。

途中、土曜限定のKCC(Kapiʻolani Community College) ファーマーズマーケットに立ち寄り軽く朝食を済ませて。

滞在中はしばし、波の音と鳥のさえずりに耳を傾げますね。手足末梢はあたたかです。

なお、ネットワーク環境の都合により、帰国までの間キャリアメールの受送信は出来ませんのでご了承ください。

Mahalo

山﨑カール(圏谷)

以後,本画像は当ブログのメイン画像として中心に据えます.

※「山﨑」と記載の二文字目「﨑」は、現地石碑どおりの字としましたが、端末上は環境依存文字です。アスタリスクなどにより表示されない場合は、「崎」の文字をあてはめます。

北アルプス立山です、標高2,400mあたりに来ています。

本当のところを云えば、平瀬道より白山へ行くつもりでしたが、登山口からの標高差(1,200m)と、そこに到達するまでの熱波の影響を考慮、予定を変更し山﨑圏谷へ。

そう「氷河果たして本邦に存在せざりしか」の山﨑。この圏谷の向こう側には、大汝,内蔵ノ助谷,真砂沢カールがあります。

6年前に認知されることとなった、国内唯一の氷河地形の一部が含まれるのがこの尾根の向こう側です。

山﨑圏谷についても、もしも西側に開けていなかったならば残存氷河として認定されていたのかもしれません。

気温23℃、涼しいです。

気圧の関係から逆流性食道炎が再燃する懸念があったことから、朝のうちにあらかじめPPIを服用しておきました。

体調に変化はなく順調に推移しています。

高天ヶ原の青空を眺める

ゴーグルに、少しだけ映り込む空の青を見て、想像を掻き立ててください、めちゃくちゃ青いんだ。

ご近所の3世代30名とともに、標高2,000mまでやってきました。私はスノボで参戦。

日頃、暖活と云いつつも、今日は雪上運動会みたいなもんですかね。

志賀高原、すごくいい天気です、ラッキーです。運勢変わったかもw

男旅 伊江島

過日の予告どおり、当社沖縄某結成10周年記念レセは一昨日、那覇市内において盛大に開催されました。お招きいただきありがとうございました。

琉球舞踊の亜種(笑)ですかね、かちゃーしー、賑やかで楽しいひとときでした。彼らにとっての10年の歳月は、まさにこの画の如く上手くないけどまとめてきたさあ、というところでしょうか(笑)。今後のご発展を祈念いたします。

このまま帰るのはもったいないですし、恩納村をベースとして本部(もとぶ)より伊江島に渡りました、男旅。

ちょうど美ら海水族館のセンターゲートから眺める海の向こうに、とんがり帽子状に見える山(岩)、そう、あれが「伊江島タッチュー」。暖活ついでにサクッと登りました。

絶景の伊江島タッチュー、風はちょっと強めでしたけど見晴らしはすごいです、良い思い出が出来ました。

フェリーにて本部の港に戻り、港湾施設内、おやおや?どこぞでお見受けしたお顔が。当社関連の顔見知りさんとばったり。航空搭載出来ない本土からの荷物の荷揚は、那覇港ではなく本部の港でした。

琉球寒緋桜が咲き始め、東アジアからのお客様が押し寄せてたいへんなんです、と彼。確かに、当社の本部営業所ヨコのそば屋に、何故か日本人はいませんでした。

あんまり書くと素行がバレるのでやめます。明後日には気をつけて帰宅しましょうね(琉球訛りで)。

旅に出ました

今思えば本年10月の経過観察の報告の際に「旅に出ないと」と予告?予言していましたけど、年の瀬の慌ただしい時期だというのにタイに行ってきました。

4月からのボランティア生活の中で、いっしょにボランティアをしていたかたがご主人の転勤でタイへ引っ越しされました。

彼女の「遊びに来てね」の言葉を真に受けた総勢3名(笑)、一人はボランティア先の理事長、もう一人は障がい者。ということで、渡航する理由付けがあったわけです、介助目的(笑)。

本来、航空機の右側ドアは開けないが、ボーディングブリッジ以外となると勝手が違うらしい。地上係員の皆様ありがとう。

介助者の視点から今回の旅を総括しておきますと、

旅先で使い慣れた車イスを使うということ、障がい者が航空機に乗るということ、バリアフリー社会と言いつつも、現実はまだまだ課題が多いように感じましたね。

とりわけ航空機、国内における客室係と地上スタッフとの連携、そしてそれぞれのポジションでの精通度合いもまだまだ足りません。

例外として、タイの地上係員はそのまま機内に乗り込んで来られましたが、彼らは車イスのことを熟知していましたね、ご立派。

機内の通路に限って言えば、圧倒的に狭隘ですから、普通の車イスでは進入出来ません。輸送力、キャパが優先され、万一の際の対策をどうするのかということが置き去りにされているように見受けられます。

2020オリパラ、多くのかたが航空機だ列車だと利用されることになりますが、羽田のハブ機能に特化して云うならば、後付け感ありありで不十分ですね。相当の覚悟をしておかないと、たいへんなことになりますよ、これ。

より詳細な話はうちの理事長に任せることとし、話を戻しましょう。

空港に着くやドライバーさん運転の車で迎えに来てくださっていて一路、首都バンコクより南へ150km走ったところに日本人タウンが形成されているシラチャの町へと。

シラチャ。

鬱蒼とした熱帯密林を切り拓いた雰囲気です。

ご家族がお住まいのマンション棟の横にコンドミニアム棟があって、その3LDKを私たちのために準備してくださり、今回の旅のベースとなりました。

そして、パタヤ(もしくはパッタヤ)。

ベトナム戦争当時、南軍の保養地として拓かれた沿岸地のパタヤへのアクセスも至近で、思い切ってボートをチャーターして沖合の離島ビーチへ足を伸ばしたりもしました。

滞在3日間、食事はすべてタイ料理でしたがどれも美味しく、Changビールもすすみました。

過去、海外に行った際には、たとえネバダの砂漠の中でも日本食は必須だった私が、全食タイ料理だったということは特筆すべきことです。

旧くは列強による覇権争いが激化していた頃より、このインドシナ半島においては、日タイ両国は同盟関係にあったと聞きます。

戦後、日本のODA政府開発援助によって近代化が図られてきたことも含め、この国の人たちは日本人にたいへん寛容でした。

交通事故の発生率が世界一であること、医療機関の充足率が低いこと等、インフラ整備は、まだ道半ばですけれども、平均寿命60歳と言われる短命の国民性がそうさせるのか、車イスを押す私たちに対し、どこへ行ってもすごく優しい気遣いをしてくれました。

3日間という短期間でしたが、見知らぬ土地で時間に拘束されず、住まうように暮らすように旅が出来たのは、現地の皆さんや同行の皆さんのおかげですね、ありがとうございました。

別れ際。

異国での馴れない生活、苦労を滲ませる涙に、私たちもうるっときましたけど、再会を約束して帰ってきました。また来るよ、きっと来るから。

かく言う私は、

昨年までの私には考えられなかった日々が今、ここに実現しています。

このまま仕事をし続けるのかい?一回っきりの人生なんだぜ。

拙い我が人生に病気が気付きを与えてくれました。

そして何よりも

自分だけ渡航というわがままを聞いてくれた妻にも感謝です、ありがとう。