2018/12経過観察 骨髄異形成症候群 (myelodysplastic syndromes:MDS)

今日は、芽球値(血球になり得ない稚拙な血球)が7.0もあり、記憶違いでなければ過去最高値でした。

上がったり下がったり、浮いたり沈んだり、そんな話ばかりですみません。数値に一喜一憂ブログ、とはしたくないところなのですが、映りはそうですよねえ。

主治医が言うには「次回の検査がたいへん重要になってきます、次回も同程度ということならば骨髄移植をすることを覚悟してもらわねばなりません」

私としては、確信が持てない中で骨髄移植をする気などまったくありませんので「骨髄移植はいたしません」と、ああ言えばこう言う状態。

医師としても、多くの患者を診てきた中で「移植は嫌だ」といきなり突っぱねるケースはそうなかったことでしょう。

「そうした治療法があることを、医師として患者にお伝えする義務があります、何もしなければ半年しかもたないことになります」「セカンドオピニオンされても構いません」とも。

医師たちはなぜかそこへ話を持っていきたがるのですね、骨髄移植。

スコアリングシステムIPSSで云えば、芽球が7.0というのは「Inter-mediate」つまり中間なんですね。

単体としての数値としては高いですが、総合的に見るとそれほどでもなく、だからと言って患者に対し、そこまで危機感を煽る必要などないと思います。

むしろ医師としては移植の話を持ち出す前に、マルク(骨髄穿刺)をして骨髄検査をし、染色体異常があるのかどうかも調べねばならず、そうした検査をしましょうとか、普通はそのような話の展開にしていくべきでしょうが。

「アザシチジン=ビダーザによる治療は選択肢ではないのですか」とのこちらからの問いに「その治療法はあまり有効とは考えていません」と、いずれにせよ向かうべき道であるにも関わらずとんちんかんな返答に終始。

医師自らいろいろな選択肢を挙げてみようとはせず、患者の言う治療手段については消去法ですか。言い方は適切ではないかも知れませんが、移植ありきという雰囲気で、それってなんだかヘンじゃないですか。

もっとも、私自身も若くないですから、移植するならするで、一年でも早くにすべきということも理解出来るのですが、聞き及ぶ範囲において、骨髄移植という治療法が極めて高リスクの治療であるということから、あえて蕀の道を選択することもあるまいとの思いですね。

したがって、

この年末は無用のストレスは抱え込まず、はるきをたくさん抱いて(ボランティア先の赤ちゃん)(笑)、笑い多き期間にしていきます。

一方で、懸案だった診察のあり方について、前回の患者会の答申を踏まえ(笑)、聴診と触診をしていただけないか申し出たところ、「診察方法については医師に一任いただきたい」と。

「脾臓の腫れ、いわゆる脾腫を抱える患者として、医師に触れてもらうことにより一定の安心感を得たい」としたところ、渋い表情でしたけれども「聴診は意味がないのでしません、データがすべてですから」と、かろうじて触診だけはしましょうかということでした。

それではいったいこの春までの大学病院では、そうした意味のない「聴診」を脈々とし続けてきたということなのでしょうか?

ずいぶんおかしなことをおっしゃるなぁと思いましたが、これ以上やりとりを続けたならば、収拾がつかなくなることも想定出来たので、そこは大人の対応で質問は打ち切りました。

思えば、春まで通院していた大学病院では、主治医自ら水銀柱の血圧計と聴診器でシュッシュされてましたっけ。

ああいうのが安心感なのだなぁと、そういうことがごく当たり前と思っていた自分が、なんと浅はかだったのか。今となってはあり得ない、憧憬ということですかね。

移植はしたくないわ、ちゃんと診察しろと云うわ、「この患者はやりにくい」と思われているのでしょうけれど、わだかまりを抱えたままにするわけにはいかず、私としての率直な思いは、ほぼ医師に伝えることが出来たかなと思っています。

なお、代謝内科における前回の脳MRIによる下垂体嚢胞に関する診察については異常はなく、引き続き経過観察をしていくということです。

左副腎腺腫の疑いがあることからCTチェックと同時に血液によるホルモン検査を行い、血圧が高めに推移している現状を精査することになっています。これについても毎年、腹部スキャンを重ねているところです。

次回、血液も副腎も特段の異常がなければ、今後の診療先については、「憧憬」という言葉で片付けることなく、大学病院へ戻ることについても検討しなければならないかもしれません。

どの道、移植ということならば、ドクターとクランケ、信頼関係が絶対です。

患者会とも相談しつつ、今後結論を得ていきたいと思います。

旅に出ました

今思えば本年10月の経過観察の報告の際に「旅に出ないと」と予告?予言していましたけど、年の瀬の慌ただしい時期だというのにタイに行ってきました。

4月からのボランティア生活の中で、いっしょにボランティアをしていたかたがご主人の転勤でタイへ引っ越しされました。

彼女の「遊びに来てね」の言葉を真に受けた総勢3名(笑)、一人はボランティア先の理事長、もう一人は障がい者。ということで、渡航する理由付けがあったわけです、介助目的(笑)。

本来、航空機の右側ドアは開けないが、ボーディングブリッジ以外となると勝手が違うらしい。地上係員の皆様ありがとう。

介助者の視点から今回の旅を総括しておきますと、

旅先で使い慣れた車イスを使うということ、障がい者が航空機に乗るということ、バリアフリー社会と言いつつも、現実はまだまだ課題が多いように感じましたね。

とりわけ航空機、国内における客室係と地上スタッフとの連携、そしてそれぞれのポジションでの精通度合いもまだまだ足りません。

例外として、タイの地上係員はそのまま機内に乗り込んで来られましたが、彼らは車イスのことを熟知していましたね、ご立派。

機内の通路に限って言えば、圧倒的に狭隘ですから、普通の車イスでは進入出来ません。輸送力、キャパが優先され、万一の際の対策をどうするのかということが置き去りにされているように見受けられます。

2020オリパラ、多くのかたが航空機だ列車だと利用されることになりますが、羽田のハブ機能に特化して云うならば、後付け感ありありで不十分ですね。相当の覚悟をしておかないと、たいへんなことになりますよ、これ。

より詳細な話はうちの理事長に任せることとし、話を戻しましょう。

空港に着くやドライバーさん運転の車で迎えに来てくださっていて一路、首都バンコクより南へ150km走ったところに日本人タウンが形成されているシラチャの町へと。

シラチャ。

鬱蒼とした熱帯密林を切り拓いた雰囲気です。

ご家族がお住まいのマンション棟の横にコンドミニアム棟があって、その3LDKを私たちのために準備してくださり、今回の旅のベースとなりました。

そして、パタヤ(もしくはパッタヤ)。

ベトナム戦争当時、南軍の保養地として拓かれた沿岸地のパタヤへのアクセスも至近で、思い切ってボートをチャーターして沖合の離島ビーチへ足を伸ばしたりもしました。

滞在3日間、食事はすべてタイ料理でしたがどれも美味しく、Changビールもすすみました。

過去、海外に行った際には、たとえネバダの砂漠の中でも日本食は必須だった私が、全食タイ料理だったということは特筆すべきことです。

旧くは列強による覇権争いが激化していた頃より、このインドシナ半島においては、日タイ両国は同盟関係にあったと聞きます。

戦後、日本のODA政府開発援助によって近代化が図られてきたことも含め、この国の人たちは日本人にたいへん寛容でした。

交通事故の発生率が世界一であること、医療機関の充足率が低いこと等、インフラ整備は、まだ道半ばですけれども、平均寿命60歳と言われる短命の国民性がそうさせるのか、車イスを押す私たちに対し、どこへ行ってもすごく優しい気遣いをしてくれました。

3日間という短期間でしたが、見知らぬ土地で時間に拘束されず、住まうように暮らすように旅が出来たのは、現地の皆さんや同行の皆さんのおかげですね、ありがとうございました。

別れ際。

異国での馴れない生活、苦労を滲ませる涙に、私たちもうるっときましたけど、再会を約束して帰ってきました。また来るよ、きっと来るから。

かく言う私は、

昨年までの私には考えられなかった日々が今、ここに実現しています。

このまま仕事をし続けるのかい?一回っきりの人生なんだぜ。

拙い我が人生に病気が気付きを与えてくれました。

そして何よりも

自分だけ渡航というわがままを聞いてくれた妻にも感謝です、ありがとう。

部内医療機関を受診しました

風邪が治りませんで、社内の病院へとやって来ました。

馴染みの看護師と薬剤師からは「元気にしてんの?」と声をかけていただきつつ。

新顔の医師には、咳が止まらなくて、と訴えたところ、ひとまず胸部エックス線を撮っときましょうかということになり。

結果、特段の影はないものの、気管支に小さな線香花火のような線状の影?

これが悪さをして夜中にコホコホするんですかね。

というわけで咳止めを処方していただきました。

本業のほうも忙しくなってきましたし、これで治まってくれればいいんですけどね。