死ぬ、ということ

運転中の番組だったもので、まじまじと聞いていたわけではないのですが、あの声はきっと室井滋だな、つぶやくような朗読。

「いつ死んでもいいと思っている、でも今日死ななくてもいいかな」的な内容で。

遅かれ早かれ、誰にも人生の期限がやってくる。とりわけ私の場合、新年早々に「余命一年」と云われあたふたしましたし。

多少なりとも心の準備はしておかねばと思っていたのですが、その後の検査結果が良好だったこともあってか、そうした思いは吹き飛んでいました。

ところが今日、「忘れちゃだめだよ」とラジオから室井姉ちゃんが呼び起こしてくれて、これを書いている。

あれ?なんだか、こっちまで室井調になってきたぞ。

一か月ほど前に「イッツ・クオリティ・オブ・マイ・ライフ」と題して一本書いていますけど、その中で、

不一致ドナーの場合が多いと聞きますから、4人に1人しか助からない世界。もちろん再発、再々発も危惧しなければなりません。75%は残念ながら命を落とすことになる。そうした確率の低い世界にいざなわれても困るわけです。

bonheur1962.wordpress.com/2019/02/07/

今月の経過観察において主治医に再度質したところ、「当院において、今まであなたの病名で骨髄移植をしても誰ひとり助かっていません」とのこと。

治療方法は移植しかないと言われている中で、しかし骨髄移植が成功していない、主治医も無理だと云う。改めて、すごいものを授かってしまったのだなと。

心の準備というのは、たぶん、そう簡単に出来るものではないと思っていて、きれいな景色を眺めながら「我が人生に悔いなし」というところから始めたほうがいいのだろうな、とか。

死生観を持つという意味で、エンディングノートを手許に置いてみたものの、じつは何にも書けていない。

というか、ノートを広げてしばらくすると「預貯金について」と出てくる。「やっぱそこですか」と、現実的な世界を見せられてしまって、気持ちが萎えてしまうっていうのも事実。

担いで行けるものでもなく、もっとも、担いで行くモノなど無いのですが。

冒頭に戻ろう。「いつ死んでもいいと思っている、でも今日死ななくてもいいかな」は、ひょっとして誰しもよく似た感覚かも知れない。

しかし、やり残したことはないか?となると、あるある。まだまだ旅に出ないと。

ひとり旅、夫婦旅、おとこ旅もだ。

スーパーボランティア氏は、千数百キロ徒歩の旅だったか、私だってボランティアの端くれとして、障がい者の手助けの旅にも出たい。

あー、これじゃ全然死ねないじゃないか(笑)。

人は誰しも、長い旅路のあとには、重い荷物を下ろすタイミングがやってくる。以前もここで書いたけど、荷物を下ろすならば、見慣れた景色が広がる自宅がいい。電車がカタコト走る音を聞きながら、普通に生活音があるのもありがたい。

延命措置はもちろん要らないし、自然のままを受け入れたい。どうか、どうか、病院の無菌室っていう無機質なシチュエーションだけは勘弁願いたい。

伝え聞くその瞬間とは、「川が流れていて、きれいなお花畑が見える」のだとか。「キレイな川、渡ろう」と思った瞬間、グイと引き戻され同時に意識も戻ったのだとか、そうした景色だけ見て戻ってきたという話も聞いた。

自分として、その瞬間とはこうあるべき、というのが実は前々からあって、

大腸カメラ検査が始まる直前、点滴している静脈に鎮静剤を入れるタイミングがやって来る。「ちょっとだけ血管痛がありますよ」と云われたあとに、自らの血液ではないモノの流入感が。ホリゾンだ。

これだけ酒を飲んでるんだし効きやしまい、などと訳のわからぬ論理を組み立てている間に、実は緩やかに意識が遠ざかっていく。

そして、自ら意識を手放す瞬間がやってくる。それがとてつもなく気持ちいい。お迎えとは、まさしくああいうふうだと思いたい。

理想。

遠くでひばりがさえずり、そんなうららかな午後。

私は私で、ターミナルってどこの駅のことだっけ?とボケをかましていたい。

違うわよ、終末期のことでしょ、こんなことも誰も言わないっか。

家族と在宅医に看取られつつ、自宅のベッドで自らを解き放つのです、おだやかに穏やかに。

「死ぬ、ということ」  2019/3/15執筆

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